TOHOシネマズ名古屋ベイシティで「セッション」を観る。途中まではワクワクしながら観てたけど、ラストはちょっと辛かった。あの舞台には、ボクは一緒に立ちたくない。
名門音楽学校へと入学し、世界に通用するジャズドラマーになろうと決意するニーマン(マイルズ・テラー)。そんな彼を待ち受けていたのは、鬼教師として名をはせるフレッチャー(J・K・シモンズ)だった。ひたすら罵声を浴びせ、完璧な演奏を引き出すためには暴力をも辞さない彼におののきながらも、その指導に必死に食らい付いていくニーマン。だが、フレッチャーのレッスンは次第に狂気じみたものへと変化していく。
途中までは「そうだそうだ!」と思いながら観てました。プロになるためには練習しかない、どれだけその時間を作り、没頭できるかだと思ってるから。どれだけ罵られても、悔しかったら練習するしかないんだよね。
あの落合博満さんも監督時代に言ってたはずだよ、練習は嘘をつかない、って。ボクが今こうやってしゃべることでお金をいただけているのも、練習の貯金があったからだと思ってるし。
才能がある人が練習したら無敵だし、そうでなくても練習をし続ければ生き残る可能性が高くなる。芸事で身を立てるには、練習のウエイトはものすごく大きいのです。
なので、ニーマンが全身全霊をかけて打ち込んでいる姿を観てて、最後はどう決着をつけるんだろうとワクワクしてました。そして、この作品を観終わった時、ボクはすごーく嫌な気持ちになったのです。演者としての自分が、この展開を拒否しました。
音楽院の中だけだったらいいけど、舞台の上であれをやっちゃいけない。周りにもミュージシャンがいるんだもん。その人たちはいったい、どうなっちゃうの? そのシーンの時、ボクはニーマンでもフレッチャーでもなく、ベースの人の気持ちになって観てたよ。「お前ら、舞台をメチャクチャにするのか?」って言いたかった。
音楽でも演劇でも、ボクみたいなしゃべりの世界でも、ひとりで作品が完成するなんてことはありえない。ほかの演者さんや裏方さんの力が集まって、ひとつの作品ができる。ボクもそういう作品づくりをしてきているから、あれを観てて嫌な気分になったのです。
あの展開にするなら、あの場面はふさわしくない。ニーマンとフレッチャーだけを舞台に立たせるべきだ。そうすれば、ボクも観終わって拍手していたかもしれない。
この作品をいろんな人に勧めようと思ってたんだけどなあ。パフォーマーになりたい人には「現実はこれだけ厳しいんだよ」と、そして、もう活躍している人には「レッスンって、こんな感じで厳しかったよねー」って。舞台に立ったことのある人なら、この作品に違和感があるんじゃないかなあ。
文字通り血のにじむ練習をして技術を身につけ、それを武器にして…というのは分かるんだけど、周りを無視して個人プレイにしちゃうってのはなあ…。あ、だからニーマンはミュージシャンとして失格ということも言えるのかな。そんな深読みもできるけど、その前にボクは、あの舞台には一緒に立ちたくない。自分もそこで演者生命が終わっちゃうかもしれないもの。
コメントを残す